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話数単位で選ぶ、2025年TVアニメ10選

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「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」投票企画の参加記事です

「話数単位で選ぶ、2025年TVアニメ10選」投票企画に参加しました。ルールは以下の通り

■「話数単位で選ぶ、2025年TVアニメ10選」ルール
・2025年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。
・集計対象は2025年中に公開されたものと致しますので、集計を希望される方は年内での公開をお願いします。

https://aninado.com/archives/2025/11/30/1109/

以下の10話を選出しました。日付は初回放送日です。

  • 空色ユーティリティ 9th shot「スペシャルなバズ」(3月1日)
  • ハニーレモンソーダ sparkle 11 「想い、弾けて」(3月20日)
  • もめんたりー・リリィ 13話「みんながいる〆のお茶漬けバイキング」(3月28日)
  • アポカリプスホテル 第11話「穴は掘っても空けるなシフト!」(6月11日)
  • 阿波連さんははかれない season2 12話「やっぱり近すぎじゃね?」(6月28日)
  • 鬼人幻燈抄 16話「天邪鬼の理」(8月1日)
  • 銀河特急 ミルキー☆サブウェイ 6話「カートとマックス」(8月7日)
  • うたごえはミルフィーユ 第10話「手と手」(9月18日)
  • 矢野くんの普通の日々 10話「誕生日」(12月3日)
  • 渡くんの××が崩壊寸前BREAK 24 「新しい生活」(12月13日)

今年は選評を書く時間が足りなかったので日記を追記修正したものを掲載しました。

空色ユーティリティ 9th shot「スペシャルなバズ」

 美少女が趣味や競技をやるアニメに対しては、ただ絵面が可愛らしく楽しいだけで厳しいことが何もなくぬるま湯のようだという偏見がつきまとう。だがそれは「何か辛いことを乗り越えて成果を出し、周囲に認められなければ好きでいる資格がないのではないか」という、視聴者側の不安の裏返しでもある。『空色ユーティリティ』にはまさしくこの不安を扱うエピソードがある。

 灰色の回想から始まるアバン、彩花が遥に出会ってゴルフの魅力を見つけるが競技志向にはなれなかった過去。現在でも競技への情熱より承認が楽しいという状態で、自分の好きに自信がない・何も持っていないと感じ、バズり欲しさに焦って空回りしてしまう。現代でSNSやってると誰もが感じる感覚でもあり、好きを見つける・主人公になるというこの作品の本題みたいなエピソードでもある。
 競技者ではなくインフルエンサーとしてマナー啓発動画やポロシャツの販売に挑戦し、必ずしもバズったとはいえないが近い範囲の人々に自分の好きが伝わっていく嬉しい時間の描写。やりたくてやっただけじゃなくて、ポロシャツの大量誤発注のように偶発的にやってみて自分はこういうことが好きだったと知る。ちょっとした冒険をして初めて得られるものがあるというのも人生の象徴っぽい。実態に不相応なくらいバズるんじゃなくて、実感を得られる範囲でだけ伝わることで自分を認められるようになるという描写の匙加減のよさ。ここでインターネットを良くない部分までリアルに描写したり、悪意が持ち込まれる展開にしたりしないのも上品でとてもいい。なぜならそれは自分の等身大の実感ではないから。
 ふと流れた嬉し涙に重なるような、ポットの中で茶葉が積もっていくカット。静かにゆっくりと積もって抽出される紅茶は、華々しいわけではない人生の蓄積、誰もが羨むようなプロやインフルエンサーになれなかったことへの悔し涙、それでも趣味としてのゴルフが劇的な成功をもたらさなくても時間をかけて少しずつ人生を彩っていくことをアナロジーで演出する。彩花は冒頭では遥のマネをしてスポーツドリンクを飲んでいたが、ラストではしっくりくる自分の方法として紅茶を飲んでいる。それは必要だから飲むという競技の象徴としてのスポーツドリンクに対して、おいしいから飲むという趣味の象徴でもある。紅茶は人生に似て苦味もあるが、その苦さも含めていとおしいのである。

ハニーレモンソーダ sparkle 11 「想い、弾けて」

 2025年冬アニメ最前衛のとんもでない映像が登場してしまった。6話に続いて大畑清隆が絵コンテと演出を手掛け、またしても過剰な演出が先行しまくる凄いアニメ。常にキマっている構図、場面説明の文字が書かれた道路を走っての場面転換、スライドを使ったトランジション、体育祭の裏側で羽花が奔走するのに合わせて執拗なほどに差し込まれる陸上競技のピストルの音、記号的でトリッキーなキャラの挙動。これらを高速で繰返しながら少しずつ変奏して心情を加速させていき、最後のリレーのシーンで奇をてらわない本気の走りの作画、そして同じ道路の文字の演出を使ってついに本音にたどり着くカタルシス。2025年のベスト話数を選ぶなら確実に入る回だった。リアルタイムで見られて本当に嬉しい。

もめんたりー・リリィ 13話「みんながいる〆のお茶漬けバイキング」

 いかにも萌えキャラ然りとした登場人物や現実感のない舞台を逆手に取り、肉体としての死と存在としての死、人間という存在全般について考え続けた作品だった。萌えアニメの掟破りを繰り返したり示唆的なエピソードが展開されたりと気になる回も多かったが、全体の総括に当たる13話を選出した。

 前回のラストでは限界まで力を使い果たし、れんげは命と引き換えに最強の敵・バロールを倒した。ここで都合よく助かったり蘇生したりしないのが、この作品が持つひとつの重要なリアリティであるように思う。死は避けられない人間の宿命ということ。そして残されたみんながワイルドハントの残党を倒してれんげの想いに報いる。1話でゆりが言っていた、亡き人の願いを叶えることで生かし続けるという主張が確実に継承されている。この回のタイトルも「みんながいる〆のお茶漬けバイキング」でだった。

 ラスボスを倒した後にも世界にはまだワイルドハントの脅威が残っている。1話の出会いのシーンをリフレインするように、れんげの面影がある少女をみんなが迎え入れるシーン。ここで少女が人間かワイルドハントによって置き換えられた非人間かを問わず、視聴者も最後まで分からないところがよい。なぜなら人間を規定するのは周囲の関係なのであって中身なんて些末なことだと、この物語を通じて全員が知っているから。れんげが遺した割烹の動画を見て料理をするシーンもまた人間を肉体として規定せず、死んでしまってもその記憶を継ぐことよって共にいることができる=友達になれるという主張であるように見える。継承されたティルフィングはねりね、ゆり、れんげの想いを宿して3人を記憶の中で生かし続ける。ワイルドハントの残党と戦って少しずつ世界を取り戻す旅、そして繰返し使われたフレーズであるところの「この日、私たちは忘れられない一生の友達と出会った」。つまり生身の人間か否か・生死がどうかでなく、何かが受け継がれる限りヒトは生き続けることを確認して、物語は幕を閉じた。

 この作品は一貫して人間を人間たらしめるものは何か?を問い続けてきたように思う。死が身近なこの世界で今この瞬間を懸命に生きること(=メメント・モリ)でありながらも、同時に肉体や物理的なものに依らず、人とは概念や記憶として継承され生き続けるものだとも訴えている。度々描かれた埋葬は亡くした人を肉体から概念に変えて記憶の中で生かし続ける操作でもあった。遺されたティルフィングが自律して動いた際には願いが宿っていたと解釈し、それを概念としての人間と認めることで生き続けていることを確かめた。人を人たらしめるのは継承なのではないか。人は一人では他者を記憶できないし承認することもできない。ゆえに誰かに認められ受け継がれること=みんなといるとドンドン楽しい、つまり仲間がいてこそという話に帰結する。みんなが認めるからこそ互いに確かな人間像を規定することができ、その前では中身が非人間になっているとか既に死んでしまっているとかいったことは些事にすぎない。
 ワイルドハントは人を殺すのでなく消してしまう。メメント・モリを否定し埋葬して弔うこともできず、痕跡を残さず消すので記憶にも残ることがない。概念としての人間を本当の意味で抹殺する敵として、これほど的確な存在はいないだろう。一方で高次の宇宙で人類をモルモット扱いしていた外部の存在(既に消滅している)も互いに通信をしないワイルドハントも、彼らは継承することがなく物理的な死がそのまま存在としての死になった。ここでも概念として継承され生き続けるから「人間」と言えること、そしてそれゆえに「人間」は滅びずに勝利するだろうという示唆がある。物理的な死の先に生きられるのは人間だけなのではないか。ノルマ的に毎話描かれた割烹のシーンで作る描写はあれほどあったのに食べるシーンが極端に少ないのも、料理を物理的存在として生きるための手段ではなく(生きるだけなら保存食だけでよい)共に過ごすための方法として扱っていたからではないか。そしてその割烹のシーンこそが、肉体が滅びてもなお動画の中で生き続けている。継承された記憶が生き続ける時間は決して長くないかもしれないが、それでも懸命に忘却に抗い生かし続けるということ。これは人間賛歌の物語でもある。
 そしてこのテーマはアニメでこそ輝く。実在する人間が演じる実写と違い、アニメの映像はあくまで動いている絵でしかないし、キャラクターも実在しない。それでも我々はこのキャラクターたちを人間と見なしている。この手続きは承認や記憶によって人間でないものを人間と規定するという、この作品の主張と同じではないか。皮肉なほどにコテコテなキャラクターの属性付けとグラビアのような過剰なアングルのショットの乱発は、肉体ではなく概念としての人間を強調する操作だったのではないか。そしてメタな話をすればアニメは3か月で終わってしまいテレビから姿を消す。しかし我々視聴者は確かに覚えている。いつかは忘れ去られる時が来るかもしれない。それでも今この瞬間は、この作品もキャラクターたちも我々の記憶の中で人間として生き続けている。

アポカリプスホテル 第11話「穴は掘っても空けるなシフト!」

 この作品ではどの回にも非人間・非生命視点から人間らしさや生命観を再発見する感動があるが、セリフを可能な限り排した静謐な映像によって言葉を使わずに全てを提示した11話がベストエピソードだった。

 数百年にわたって稼働してきたヤチヨはポン子に労働基準法に従うよう言われ、はじめて休暇を取ることになる。ホテルに宿泊してみるが仕事をしてしまうヤチヨ。やることがなく自分自身のメンテナンスをするなかで体内のパーツの寿命を検知し、替えのパーツを探してホテルの外のポストアポカリプス世界を一人で旅する。今まで描かれてこなかったホテルの外側の終末世界をここぞというタイミングで存分に、台詞まで排してひたすら見せるという大胆な構成がすごい。今回は美術が主役の回だった。
 廃墟には数百年経っても人間の生活の生々しい痕跡は残っているが、遺体は生物に分解されてしまったのか全く見当たらない。かわりに生物のサイクルの外にいるロボの残骸だけは残り続けている。一方でヤチヨはロボでありながら自己保存のために行動しておりさながら生命のようでもある。ここでは対話する相手がいないので具体的なセリフが全くないが、言語以外の方法で自己との対話が行われているように見える。廃墟で人間の振舞いを形式上だけマネしたり、動物と心を通わせていったりする。死と生の対比。最初に来た宇宙人から貰った瓶の中身が長い時間をかけて環境を変えているようだった。焚火のもとに集まるのは人間ではなく動物たち。ヤチヨたちがホテルを宇宙人の来客でいっぱいにしたことを連想する。
 最終的には修復不可能になったロボットを見つけて同型パーツを手に入れる。ロボットなのに生物が命を繋ぐようでもある。ヤチヨはこの時に悼むような行動をした。ホテルのロボの故障時には「無期限休職中」と呼んでいたこととは明らかに違う、外のポストアポカリプス世界と生物を見てきたゆえの変化がある。この一連のシーンでも安易に故障した同型機に言葉をかけたりせず沈黙が徹底されている。命を繋ぐ捕食にも追悼にも見える、良い演出だったと思う。
 ホテルに戻ったヤチヨは「生きている感じがしました」と総括的な台詞を述べ、ここで物語は幕を閉じる。ここで価値判断の入っていない、ただ生があるという実感を示す言葉で締めくくったことがすばらしかった。

阿波連さんははかれない season2 12話「やっぱり近すぎじゃね?」

 物語が最終回を迎えると当然キャラクターたちが新たに描かれることはなくなる。だが物語が終わっても登場人物に人生があることを示唆し、まるで実在し続けるかのように印象付ける作品もある。これは一体どういうことなのか。その答えは『阿波連さんははかれない season2』の最終回にある。

 ライドウくんが土地家屋調査士になって謎のバトルを繰り広げる冒頭。この作品の距離をはかるテーマと測量のアナロジー。いつもの妄想かと思ったら実はライドウが書いた小説の映画化で(シネスコサイズなのはそのため)、数十年後に飛んで阿波連さんが孫と会話しながら思い出を振り返っていく。学校を卒業したり2人が交際したりしたところで作品が終わるのではなく、日記を辿ることで回想の形を取って人生をダイジェストですべて見せてしまう。この作品では最初は距離がおかしいというシチュエーションギャグのためにキャラが設定され、そこから人柄を掘り下げたり人間的成長をオーバーラップさせたりすることでキャラクターを装置ではなく人間へと変化させるプロセスをたどってきた。最終回はその総決算として、高校生活だけではない人生全てを描いているのではないか。
 卒業式のあとライドウの将来を縛るのではないかと気にして身を引こうとする阿波連さんと、阿波連さんへの尊敬と一緒にいたい気持ちを述べて結婚しようとプロポーズするライドウくん。距離のはかれなさの問題は人生を共に歩むパートナーとして・将来への距離として変奏される。ときめくようなロマンスに限らず、互いを尊敬するからこそ一緒にいたい、そして互いに尊敬される自分で居ようと約束するようだった。
 一方で大人になった石川と佐藤さんにもフォーカスが当たる。この2人は常にライドウくんと阿波連さんの選択に対する別解を担当してきた。佐藤さんは石川には他に好きな人がいるからと「普通」の良き友人としての関係を続けてきたが、石川は佐藤さんも大切な人だからこそ結婚しようと言う。石川の好きな人やセクシュアリティが最後まで明言されることはないが示唆はされていて、それでも別の形で大切な人だからと佐藤さんと人生を歩む選択をする。時間が変化をもたらしたこと、色々な結婚の形があることを示すようだった。
 結婚式、夢を叶えた人々、新しいことに何でも挑戦するライドウ、そして夫婦の会話の中で初めてライドウのファーストネームが明らかになる。不自然なくらいに名前が隠されてきた呼び方を取り払うことは、ライドウくんをキャラから人間へ変える最後のピースだったのではないか。
 ライドウくんと出会った日のことを阿波連さんの視点のモノローグを重ねて描く回想が作品のフィナーレを飾る。阿波連さんをキャラクターから人間にする最後のピースは、そもそもこの関係が始まる理由になった初回の距離が測れないシチュエーションを作者の作為から解き放ち、阿波連さん自身の選択へと変えることだったのではないか。始めて描かれる阿波連さんの視点の内心のモノローグ。画竜点睛のように阿波連さんの想っていたことが遡及的に作品全体へと適用され、キャラクターが人間になる鮮やかな瞬間が確かにあった。

鬼人幻燈抄 16話「天邪鬼の理」

 江戸から平成に至る170年もの長い時間を生きた主人公・甚夜が、時代や運命に翻弄されながらも生きる理由や刀を振るう意味を自らに問い続ける和風ファンタジー。いずれも素晴らしいエピソード揃いの作品なので選出ではかなり悩んだ。17話「剣に至る」と19話「流転」も良かったが、演出が好きな16話を選んだ。

 人を喰うという噂を聞いて白銀の狐の鬼・夕凪を斬った甚夜。だがそこから幻影に呑まれていく。いつものように蕎麦屋の喜兵衛に足を運ぶと夕凪と名乗る女と赤子の姿があった。嘘とも本当ともつかないことを繰り返す夕凪と奇妙な時間を過ごすうちに、甚夜は夕凪の想いやこの幻の正体が自分の記憶から生まれた未練であったことに気が付く。そして……。
 偽物や虚実のモチーフが全体にちりばめられている。タイトルにも含まれる天邪鬼には鬼が含まれている。これは人を喰う鬼を装って子を託した夕凪のことを指しているが、時には自分の心に嘘をつき後悔を重ねてきた甚夜の人生の歩みのことも指していた。夕凪の『天邪鬼と瓜子姫』の読解はみずからの心情の吐露のようでもある。また作中の怪異譚『大和流魂記』では茂助とはつの夫妻を巡る悲しい事件が後年に伝わっていることが示唆され、夕凪もまたはつが貪り食った女の中のひとりであったことが4話を見返すとわかる。同化で引き継いだ記憶の中から夕凪は生じていたのだった。本当の顔を隠すようにおしろいを塗った夕凪のいでたち。おしろいのまがい物であり、昼と夜のあわいに咲くという虚実の中間を象徴するようなおしろい花。このエピソードのロケーションに選ばれた喜兵衛もまた偽りの親子が営んでいる。だがここには本物の愛情がある。子供は嫌いだとうそぶく夕凪。しかし夕凪が偽りの母であったとしても娘を思う愛は確かに本物なのだった。
 甚夜は虐待を繰り返す親から逃げた先で葛野の村に拾われ、長い人生を放浪しつづけるなかで出会いと別れを繰り返した。白雪や奈津との離別の記憶がよぎる。その甚夜が託された子を自分の娘にするということ。最後の台詞「私の娘だ」は、実の娘という意味ではやはり嘘である。だが嘘から出たまことであっても本物の愛情の存在を信じ、嘘を本当にする決意のようでもあった。
 かならずしもリッチによく動くわけでもない作画だが演出や台詞などと組み合わさり全体的にはかなり上手い。静かでどっしりとしたコンテ、情緒を台詞以上に感じさせる間の取り方、それらに負けない八代拓さんの声。抑制的なトーン中にわずかな揺らぎがあり、そこから長い人生を経て降り積もった感情が垣間見えて抜群の雰囲気を作っている。いずれもダイジェストとしての事実ではなく実際にそこに居合わせて見届けた気持ちになるようだった。甚夜の長い人生のなかの一瞬の時間を追体験するような迫真性があった。

銀河特急 ミルキー☆サブウェイ 6話「カートとマックス」

 CGキャラクターの豊かな芝居、カートゥーンみたいな抜群にセンスがいい会話劇、短尺でも大胆に時系列シャッフルしたり間をとったりする構成のセンス、気持ちがいい音ハメのアクションなど、どの話数も見どころがある本作。「意図なし! 主義なし! 主張なし!」という作品のキャッチコピー通りに底抜けに明るく楽しいストーリーもいい。しかしそのキャッチコピーに反し、6話は明確に意図が垣間見えるエピソードだった。こうした包摂の思想が好きで選出した。

 6話では前回から時系列が戻って2人のサイボーグの青年、カートとマックスが取調を受けるシーンに。この世界では砂糖が禁制品であるらしい。サイボーグ用の自白剤によって、2人がまともな職業からドロップアウトした先で非合法の仕事の手先になっているらしいことなどが語られていく。警察官のリョーコがしょうもない人形劇を見せる冒頭、ハッキングでシャッターを下ろして取調を逃れようとする中盤など、窓越しの取調というロケーションが徹底的に活用されている。ドロップアウトした理由として「仕事で感謝されず機械扱いを受けた」と2人が語るシーン。顔が見えない背後のショット→顔を隠す半分閉じたシャッター、と徹底して顔が隠されており個としての人間性が奪われていることを象徴するようでもある。3話で過去のマキナの頭部にはカメラだけがついていたように、おそらくサイボーグには生存のためには必ずしも顔が必要ない。それでも顔があるのはやはり顔にこそ人間性が宿るからであり、そして他者に意志ある存在とみなされるには顔が必要だからではないか。最終的には心を閉ざすようにシャッターはすべて閉じてしまう。思えば「サイボーグ用の自白剤」も機械扱いに通じるものだし、冒頭のリョーコの人形劇も顔を見せない点で警察の仕事を皮肉っているようでもある。テンポや間のコントロールが素晴らしいコメディとしてだけでなく、決める箇所ではキメのショットがガッツリ作用しており素晴らしかった。

うたごえはミルフィーユ 第10話「手と手」

 この数年で『MyGO!!!!!』や『ガールズバンドクライ』など、激しくぶつかり合いながら前へと進むバンドもの作品が多く登場し、ブームになっている。いずれも音楽の力が心を一つにし、一蓮托生でやっていくという熱い青春の展開がある。だが『うたごえはミルフィーユ』はそれらへのアンチテーゼのような物語を展開した。歌に魔法のような力はないし、一生同じ仲間でやっていくこともない。いずれ訪れる変化や終わりに対して、われわれはどう向き合っていったらいいのか?10話には一つの結論があった。

 レイレイは実力を試せる場所としてプロを目指す大学生のユニット・Parabolaへと加入を決め、部内ではいずれアカペラ部を脱退するのはないかと動揺が広がる。そんな中、6人の最後のステージになるかもしれないクリスマスライブが決まる。全員が変わっていくなかで、アイリだけは変わらず今のままでいたいと願い……。悲しい思い出にならないようにと、部員たちはアイリにオリジナルの曲を作って欲しいと依頼する。冬が深まっていく外の景色は時間が否応なく人を変化させることを示唆する。
 ウタは変わった後の自分自身のことが好きだと言い、クマもまた言葉にしなければ伝わらないと訴える。アイリとレイレイは互いの思いを打ち明けて関係を結び直し、互いに変化を受け入れるのだった。クリスマス当日、子供たちに向けたライブは盛況に終わる。レイレイはParabolaとアカペラ部を掛け持ちすることになり、新年度に新入部員を迎えるシーンで物語は幕を下ろす。
 全体を通して、異なる考えや目標を持つ人たちが限られた時間の中で意識的に同じ方向を向いて重なり合うというアカペラ部の関係が「ミルフィーユ」になぞらえられていたのではないか。ミルフィーユの生地は決してひとつにはならず綺麗な層状で、層と層はクリームで接着され、日持ちしない。部員それぞれの動機や熱意の方向、抱えた目標はいずれもバラバラで自然に揃うことはない。対話を重ねて互いに手を取り合うことで、意識的にみなが一つの方向へを向くことになる。
 ウタが部員を説得する際には「悲しい思い出にしたくない」という動機が繰り返し挙がる。裏を返せばここには誰もが変化して全ては思い出になるという終わりへの意識が常にある。だが「おばあちゃんになっても会おう」とウタが言ったように、何かが思い出に変わっても関係もそれで終わるのではなく、新しい関係として積み重ねていきたいという願いでもある。最後のライブシーンで披露された「思い出話」の歌詞はこれを象徴しているようだった。思い出を積み重ねることもまた、ミルフィーユにたとえられているのではないか。
 最終回に至るまで、この作品において歌は不安や人間関係の問題を解決することはなく、実際に問題を解決するのは現実での成長と対話の積み重ねだけだった。また歌や仲間を逃避先にすることも徹底して拒否する。「魔法」に頼らず一歩ずつ人生を歩む作品の姿勢が素晴らしかった。

矢野くんの普通の日々 10話「誕生日」

 面倒見が良く心配性なクラス委員・吉田さんが不運ばかりに見舞われる矢野くんを好きになり、ラブストーリーの進展と共に人を避けていた矢野くんも友人ができ周囲に溶け込んでいくというストーリー。温かな人間関係、誰しも共感する不安や少しの心の棘、それを乗り越える優しさなどを描く目線がよく、全ての感情を解像度の高い表情の芝居で示し続けるのがすごい。過剰に煽らず見守るような映像も素晴らしかった。特に映像が良かった10話を選んだ。

 前半では矢野くんの誕生日を知ったみんながサプライズの誕生日祝いを計画し、学校で宝探しゲームを実施。後半では矢野くんと吉田さんが交換日記をすることに。知らない側面を一面を知って一層距離が近付いたように見えたが、矢野くんには眼帯にまつわる触れられたくない過去があるようで……。
 全員があまりにもいい人たちすぎる。先生が極まって泣きそうになっているシーンに完全に共感してしまった。今回は矢野くんが学校内をあちこち移動し、それを物陰から見守りつつスマホで撮影するという回なので、教室の会話劇に比べて奥行きあるショット、手前と奥で別々の時代が起こっているシーンなどが多数あり映像が面白い。後半の矢野くんが隠している過去の話になるときの心の距離の描写もいい。拒否ではないけども少し距離をとってしまう矢野くんのどまどい、無神経じゃなかったかと気にする吉田さん。階段というロケーションを生かした上からのカメラの後、一度は並んで座った2人を水平に撮るショット。対等な関係にみえたが、矢野くんは階段から転倒して尻もちをつき再び不均衡な位置関係になってしまう。この位置関係の変化を見せる動きとポージングも全部上手い。

渡くんの××が崩壊寸前BREAK 24 「新しい生活」

 一見して過激な釣りタイトルのようでありながら、ラブコメを通じて人生の全てを描き切る気概に満ちた素晴らしい作品だった。放送時間が遅め、わかりやすい派手作画アニメではない、サブスク配信はFOD限定と、あまり良い条件ではなかったためか評論が足りておらず惜しいように思う。特徴的な作風が目立ち、このエピソードの有無で作品全体の印象も大きく変わる24話を選出した。

 OP/EDカットで普段より本編尺が長く、さらに映像の文法が全く違う回だった。それもそのはずで演出回はいずれも独特の作風になることで有名な山内重保が演出と絵コンテを手がけている。特有のカット割、斜めのアングル、画面の色、モノに託した心境などが全部発揮された回だった。
 直人と紗月の夏休み限定の半同棲生活を描く冒頭。最初にスマホの時計が映って朝5時頃に紗月が起床し、次に同じ布団で直人も寝ていることが分かるカット。そこから紗月はシャワーに向かい、次にドア側からベッドとテーブルがある部屋のカット。次のシーンで5時30分に遅れて直人が布団を出ることで、先ほど映った部屋が2人の寝室だったことがわかる。部分のクローズアップから全体像へとつながり、朝起きると1人ではないという実感を謎解きのように描いている。アバンの後ではキッチンで朝食を作る直人に画面が変わり、奥に先ほどの寝室とテーブルが見える。朝食がテーブルに2人前が揃ってようやく、この家が1Kの間取りで2人は同棲していることが完全に分かる。
 料理人修行のため出かける直人と見送る紗月の会話。切り返しの会話でも首を傾げるような所作や斜めのアングルがついている。まだ同棲に慣れきっておらず力が入っていたり、もっとイチャイチャしたいが将来を考えてセーブしていたりする2人のもどかしさが出ている。直人の肩越しに紗月がターンするカットがすごい。家を出る時は2人が同じカットに入っていなかったのに、帰宅後の2人がベッドに並んで座る写すシーンでは2人が同じ画面に収まる。妊娠したのではないかという誤解で騒ぎになった後(この場面もレストランのボックス席を引きで写すレイアウトがやたらと良い)、紗月が体調を崩していると知って自宅から急遽駆けつけ看病する一連のシーン。まずこのベッドから起き上がった紗月と座っている直人の向き合う構図が上手い。だが正面から向き合っての会話は途中から紗月の体を拭くため背中越しの会話になり、ここで徳井の話題が上がる。素直な直人に対して、素直でない紗月・素直でない徳井の2人だけが見えているものがあると連想させる位置関係。
 Bパート冒頭では海沿いのバーベキューレストラン(?)のテラスのボックス席で始まる。ここで4人が揃うレイアウトがいきなり良い。海沿いで直人と2人になった徳井は、元カノであるアキにもっと素直に好きと言っておけばよかったという後悔を抱えていたと直人に吐露する。止まっているカモメは先に進めないでいる気持ちを象徴する。ここでウッドデッキに2人が座るロングショットは回想入り前と回想明けで2度出てくるが、2度目は夕陽に照らされており、物理的にも心理的にも時間が経過したことを思わせる。徳井はアキに会いに行って一度は空振りになるものの、偶然の再開によって気持ちに区切りをつけることができた。アキとの思い出の回想は赤みがかっていて、夕陽に照らされたこのシーンでも画面は赤い。過去と現在を繋げるようだった。次の恋愛へと進めるようになったことを象徴するように、アキと別れたあとに飛び去るカモメがインサートされる。涙を流すかのように滲むフェードアウト。そして夕日との連想のようにバーベキューの場面につながる。思い出を火葬するようでもあった。
 最後のバーベキューのシーンでも紗月と徳井が並んで会話するが、徳井とは道を違えて今の恋愛へと進むかのように紗月は直人の方へと向かった。そしてまたカモメが飛び立つ。ここには徳井の、同類としての紗月への気持ちを振り切ったという意図が込められていたのではないか。
 山内重保回の配置もうまかった。前半は新生活のはじまり、後半は徳井の過去にまつわるエピソードで、どちらも普段とロケーションが変わっているため、普段と違う特徴的な映像がよく映える。特に後半はOVAや劇場版を思わせる番外編的なよくまとまった単独のエピソードでもあった。紗月を追いかけた直人に対する追いかけなかったイフを示唆するエピソードでもあり、同時に今までなぜ徳井がこれほど直人と紗月に肩入れしていたのかわかる、終盤の答え合わせを担う重要な回でもあった。このエピソードが直人と紗月が同棲をはじめてから初めて語られることで、直人が紗月を追いかけるという選択のダシにされていないのもいい。最後の2話を残した「24話」でこれをやり、直人と紗月以外にもみな人生があるということを忘れさせない差配が素晴らしかった。


10作には入れなかったもののピックアップしたい話数

リンク先に短評が載っています。

感想

 選出した後に気がついたんですけどアクションの作画にはあまり関心がなく、物語を彩る静かな演出が効いた回ばかりが気に入っていました。そうした作品は目を惹く大作アクション回に比べてあまり注目されていないような印象を受けるので、フェアな評価を受けてほしいという気持ちもあります。

 今年から毎日見たアニメの感想をほぼすべて書くようにしたところ、アニメの良かった回の記憶が定着したため選出が楽になりました。話数単位での感想って見た直後に可能な限り書いたほうがいい。

 2026年も良きアニメライフを!

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